懐妊話(1) その1
 次の予定はいつだ、何日遅れてる、と頭の中で数えていたのが悪かった。
 左方向から猛スピードで迫ってくるスカイカーの存在に気付かなかった。
 破壊音とともに機体がひしゃげ、飛び出してくるエアークッション。燃料のオイルが漏れる匂いがして‥‥。

「ベジータちゃん! ベジータちゃん、いらっしゃる?」
 ブリーフ夫人が珍しく慌てた様子で、ベジータがいる重力コントロール室の呼出ボタンを押した。室内にディスプレイが現れ、中のベジータと通話状態になる。
 ちょうど、重力を下げて部屋を出ようとしていたところだったベジータは、ディスプレイには答えず、直接ドアを開けた。目の前には血相を変えた夫人が立っていた。
「ベジータちゃん、大変なの。ブルマさんが事故にあったって」
 その様子から察するに、芳しくない状況のようだ。
「265区の救急病院に搬送されたのよ。遠くて、スカイカーじゃ時間がかかるわ。ママを運んで飛んで頂戴」
 ベジータが返事をどうしようかと考える隙を与えないかのように夫人は、ベジータの持っていたタオルを奪って汗を拭いてやり、重力室脇の休憩室に無造作に脱ぎ捨ててあった彼の服をめざとく見つけてそれを渡してきた。
「265区よ、分かるわね。ああ、もうパパも呼び出されて、大変‥‥」
 言いながら夫人はもう、ベジータの腰に手を回して掴まっていた。
 この女はいつもこうだ、とベジータは思った。
 己の要求に対して、引き下がることはない。望んだことは全て受け入れられると思っている。この女に限らない、この家の人間は誰もがそうだ。傲慢で、したたかな連中揃いなのだ。
 だからこそベジータも何の気兼ねなく、自分もまた自分のやりたいようにこの家で暮らしているのだ。
 
 ここまで段取りよく出発の準備をさせられて、これを覆すほどの確固たる否定理由も無く、ベジータは夫人の要求を素直に呑んだ。
 これがもし、修行の途中であったり、控え室に服が置いてなかったりすれば断っていたかもしれない。まったく、ちょうどいいタイミングをピンポイントで突きやがって、とベジータはひとりごちた。
 夫人を抱えて西の都上空を飛び、目指す265区が近付いた。何か焦げ臭い匂いがするのに気付いてその方向を見ると、鉄の残骸となったスカイカーが2機、絡み合ったように落ちていて、黄色いテープで囲われてあった。通り過ぎるのは一瞬だったから夫人には見えなかっただろうが、ベジータには見えていた。見覚えのあるスカイカーだった。
 目的の病院の間近にまで来た。
 見ると、建物の周りがなにやら騒がしい。中継車や、テレビカメラ、テレビ局の腕章を付けてマイクを持ったレポーターたちが集まっていたのだ。
「あらあら、正面から入れそうにないわ。ベジータちゃん、裏口のほうへ降ろして頂戴」
 言われるまま降ろし、もう用は済んだと引き返そうとするベジータの手を夫人は掴み、建物の中へ引っ張り込んだ。
「お、おい」
「ちょっと手伝ってね。もォ、大変なのよ」
 
 状況が分からぬまま、夫人の後に付いていく。裏口からは遠い受付に辿り着くと、そこでブルマの病室を聞き出す。教えられた病室は、これまた、最上階の更に奥まった場所にあった。
 セキュリティの厳しそうなドアをいくつかくぐり抜け、ようやく目的の病室に到着した。
「ブルマさん!」
 夫人がドアを開けると、中では体中に包帯が巻かれ、口元に酸素マスクをあて、点滴に繋がれたブルマが眠っていた。それ以上の特殊な医療器具がないのを見て、ようやく夫人は落ち着いたかのように、いつものおっとりした口調になった。
「ブルマさ〜ん‥‥眠ってらっしゃるの?」
 そばに近づき、声をかける。深く眠っているようで、すうすうと規則正しい呼吸音がする。
 ドアがノックされ、医師が入ってきた。
「マダム、この度は大変でしたね」
「まあ先生。ご迷惑おかけしてます」
 2人は顔見知りだった。
 ベジータは知らなかったが、この病院は西の都では権威のある病院のひとつだった。夫人と医師も、社交界で何度か顔を合わせている。要人の受け入れも行っており、ブルマが入院しているこの部屋も、辿り着くまでにいくつもの厳重な入室チェックが行われていた。
「娘の容態はどうですの?」
「ええと‥‥」
 言いかけて医師は、ベジータの方へ視線をやった。
「こちらは、御家族のかたで?」
 尋ねられて、部外者の自分は席を外す必要があると察したベジータは部屋を出ようとした。だが、それよりも早く夫人の手が伸びて、帰りかけたベジータの服の裾を引っ張った。
「はい、うちの者です」
 関係ないだろう、そう思いながらもベジータは足を止めた。
「ご容態ですが‥‥」
 安心して医師は話を続けた。
 状況としては、命に別状はないこと。右半身に打撲と骨折、この骨折の処置のために麻酔をかけたのと、それから事故による出血と、元からの睡眠不足があり、もうしばらくは眠り続けるだろうということが説明された。
「それから」
 また医師は、ベジータの顔をちらりと見て、それから夫人の方へ向き直った。
「お嬢さん、妊娠されてますね」
「えっ‥‥!?」

 一瞬、ベジータの思考が止まった。

 妊娠している? 
 この女が?

 医師は説明を続けた。
「おそらく、7週目ぐらいでしょうから、もしかしたらお嬢さん自身も気付いてないかもしれません。あれだけの出血と衝撃があったのですから、そうとうに危険な状態だったはずですが、大丈夫、異常はありませんよ」
 それから、今後の治療方針やセキュリティの説明をいくつかして、医師は部屋を出た。
 2人きりになって、夫人は急に「うふふ」と笑いながらベジータを見た。
「よかったわね、ベジータちゃん」

 よかった? 
 何が?

 夫人は何を言っているのだろうか。
 どんな表情をすればよいか分からないベジータは無言だった。
「あのね、ベジータちゃん。申し訳ないけれど、しばらくこの部屋にいてくれないかしら?」
「おまえはどうするんだ」
「パパのお手伝いに行かなくちゃならないの」

 さて、ようやくベジータに、なぜここまで連れてこられたのか説明がなされた。
 ブルマの事故の相手というのが、警察が追跡していた強盗の逃走機だったのだ。
 『警察の強引な追跡により、カプセルコーポレーションの社長令嬢が負傷した』という状況に、いつの時代にもいるのだ、権力吏の失態を殊更にに叩きたがる連中は。そのアジテーションにぜひC.C.という大企業を担ぎ上げるために、一部のマスコミはこの事故を早速声高に書き立てていた。C.C.としてはそんな馬鹿騒ぎに付き合うつもりは毛頭無いが、ここが大企業の厄介なところ、ただ沈黙していては好き勝手に解釈されてしまう。だから明確に、無関係を表明せねばならぬ。というわけで社長であり父親であるブリーフが記者会見を開くことになった。夫人は博士の秘書を務めており、そちらへ行かなければならない、というわけであった。
「ここのセキュリティは万全だけど、中にはお行儀の悪いお客様がいるかもしれなくてよ。もし来たら、丁重にお帰りいただいてね」
 含みのある言い方をして夫人は、半ば強引にベジータをその場に残し、部屋を出て行った。

 ベッドの上では相変わらず、すうすうとブルマが眠っている。
 ベジータは備え付けの椅子を引き寄せ、そこに座った。

 ブルマが眠っている。
 その顔を眺めながら、ベジータは考えていた。

 妊娠している。この女が。

 医師が告げた事実を、頭の中で繰り返す。

 どのくらい、そうしていただろうか。
 ドアをノックする音で、我に返った。
 何度かノックがなされ、しかし返事をしなかったベジータだったが、ドアはそうっと、遠慮がちに開かれた。

「‥‥よう、ベジータ。久しぶりだな」
 顔を覗かせたのは、ヤムチャだった。

 ヤムチャはこの頃、西の都からそれほど遠くない場所を修行の拠点にしていた。だからラジオから流れてくるニュースも、おおむね西の都関連のものばかりだった。
 修行の途中で、プーアルが慌てて飛んできた。何事かと尋ねたら、西の都が大騒ぎだという。
 そこでヤムチャは、ブルマが事故にあったことを知った。
 よくよく聞けば、事故の内容はゴシップ好きのそそられる内容であり、午後から社長直々の意見表明があるという。ああ、これは博士もママさんも大変だな、と心配になったヤムチャは、ブルマの容態が気になることもあって、病院まで来てみたのだ。
 大病院のVIPルームに入院中と知って尻込みしたが、受付で面会を申し出ると、あっさり許可された。C.C.のプライベートIDに、自分がまだ含まれていることを知ってヤムチャは嬉しい反面、申し訳ない気分にもなる。1年ぶりぐらいの面会を、果たしてブルマは快く受け入れてくれるだろうか‥‥心配しながら、病室の前に立つと、中に弱々しいブルマの気と、ともう一人の存在を知った。
 ‥‥ベジータだ。
 なんで、ベジータがここに?
 見舞いにくるようなヤツじゃないしなあ、と思いながらも、ドアをノックする。
 返事はない。
 そりゃそうだ、愛想良く「はぁい、どなた?」なんて言う訳がない。ヤムチャはドアノブに手をかけた。
「よう、ベジータ。久しぶりだな」

 ヤムチャは恐る恐る、病室に体を入れた。拒まれる気配はない。小さく息を吐いて、後ろ手でドアを閉めた。
「ニュース、大騒ぎだぜ。博士も記者会見だってな」
「‥‥‥‥」
「外、見ただろ。報道陣が取り囲んでたよ。けど、やっぱココの病院はすごいな、がっちり追い出してた」
「‥‥‥‥」
 ベジータの返事はない、が、今までだって彼とまともに会話をしたことなどないのだ、構わずヤムチャは話しかける。
「で、ブルマの具合はどうなんだ?」

「どっちも無事だ」

 そう言うとベジータは立ち上がって、部屋を出ていこうとした。
「え?」
「よけいな連中が来たら追っ払え、だとよ。任せた」
 言うだけ言って、ベジータは出ていった。

 いま、『どっちも』って言ったか?
 誰か、同乗者がいたのか?
 そんな報道はなかったと思うが。

 頭に疑問符を浮かばせながらも、ヤムチャはベジータから引き継いた仕事をすべく、さっきまでベジータが座っていた椅子に腰掛けた。

(‥‥近いな)
 それはブルマと、近すぎる距離にあった。
 ベジータはここで、何を考えて、何を見ていたのだろうか。
 ブルマは痛々しい姿ながらも穏やかな顔で、寝息を立てている。
 彼女の寝顔を見るのは、いつぶりだろうかと考える。
 遠すぎて、忘れてしまった。
 
 ラジオから記者会見の中継が流れてくる。
 博士の口からハッキリと方針が発表されたところで、ラジオの電源を切った。
 もうすぐ博士もママさんも戻ってくるだろうか、と考えたところで、ブルマが身じろぎをした。

「‥‥‥‥ん‥‥」
「お、目が覚めたか?」
 声をかけると、ブルマは目を何度か瞬かせ、顔をこちらにむけた。
「ヤム‥‥」
 言いかけて、急にハッとした表情になり、慌てた様子であろうことか起き上がろうとした。
「痛ッ!!」
「おい、じっとしてろ。大事故だったんだぞ!」
 椅子を倒しながら立ち上がり、ブルマの体を抑えるべく腕を伸ばす。
「事故‥‥‥‥」
 青い顔をしてブルマは、差し伸べたヤムチャの腕を掴んだ。その手が震えている。
「ね‥‥‥‥ねえ‥‥」

「赤ちゃん‥‥お腹の赤ちゃん‥‥‥‥どうなったの‥‥‥‥」

 今にも泣き出しそうな顔だった。
「赤ちゃん?  ブルマ、おまえ、妊娠してんのか?」
 ヤムチャの問いに、ブルマは力なく首を振った。
「‥‥分かんない‥‥分かんないの‥‥」
「とりあえず、看護師さんを呼ぼう。いいな?」
 と、ヤムチャは枕元の呼び出しボタンを押して、スピーカーの向こうの相手に、ブルマの意識が戻ったことを伝えた。相手はひどく呑気な声で、「すぐ参ります〜」と返事をした。
 間もなく、キャリーの車輪の音と足音が聞こえて、看護師が病室に入ってきた。「アラ、体を起こしてはだめよ、安静になさって」などと、やっぱり呑気な口調で声をかけてきた。ブルマはこの看護師に自分の状態を聞いてみようとするが、歯ががちがち言って、思うように言葉が出ない。
「あ、あの‥‥」
 聞けない、答えが怖くて。
 声を出せないブルマに代わって、ヤムチャが訪ねた。
「あ、あの。彼女、もしかして、妊娠してませんでしたか?」
「はい。大丈夫ですよ、まったく異常、ありません」
 事も無げに、看護師は答えた。

 へなへなと力が抜け、ブルマはベッドに倒れ込んだ。そこでようやっと、自分が怪我をしていることを思い出して、軋んだ体に悲鳴を上げた。
「よかった‥‥」
 大きな安堵の溜息を吐いた。その呼吸すらも痛くて、思わず顔をしかめる。閉じた瞼の間から涙が出てきた。
「お腹の赤ちゃんに障りますからね、静かに寝ていてくださいねー。すぐ、ドクターも参ります」
 看護師は慣れた手つきでチャキチャキと処置を済ませ、部屋を出ていった。緊張の糸が解けたヤムチャも、先程の椅子を起こして、そこにへたり込んだ。
「‥‥だって、よ。よかったな。おめでとう」
 けれどもブルマは涙を拭った左手で顔を覆ったまま、返事をしなかった。
「結婚、したんだな。みずくさいな、教えてくれたって」
「‥‥してない」
「え?」
「してないわ、結婚なんて」
「え、だって、妊娠‥‥」
「ベジータなの」

 衝撃的な告白に叫び上がりそうになるが、必死で口を押さえた。 
 しかしそれ以上に、まるでパズルのピースがきっちり嵌まって一つの絵が完成したかのように、頭の中がどんどんクリアになった。
 ああ、そうか。だからベジータはここにいたのか。
 この椅子の距離は、そういう意味だったのか。

「あ‥‥、あはは、そうか‥‥、ベジータか‥‥」
 意外と言えば意外だし、順当といえば順当だった。あの、気位の高いサイヤ人の王子と、同じくプライドの塊のブルマ。ヤムチャが一緒に暮らしていた頃から2人は傍目には犬猿の仲だった。けれど言い換えればそれは似たもの同士と言うことで、一度どこかで歯車がかみ合えば、それはきっと、がっちり絡みついて離れないものになるのだろう。そもそも、一つ屋根の下に暮らしていた男女だ、いつそういう関係になってもおかしくない。それでも、「あのベジータが」という前置きはやっぱりあって、それを想像するとどこか笑えてくる。
 白けた笑い声をあげるヤムチャに、しかしブルマはやっぱり返事をせず、顔に手を当てたままだ。
「‥‥ブルマ?」
「ねえ、ヤムチャ‥‥‥‥どうしよう‥‥」
 どう、って?
「あたし、‥‥どうしたらいい‥‥?」

 ブルマが戸惑っている、それはヤムチャから見ても明らかだった。
 つまりそれは、この妊娠が望んだものではないことを意味しているのだと悟った。
 ヤムチャはごくりと唾を飲み、慎重に言葉を選ぶ。
「えっと、聞くけどさ‥‥、もしかして、アイツに無理矢理‥‥?」
 ピクッ、とブルマの体が強張る。ヤムチャは黙って、ブルマの返事を待つ。
 ブルマの頭が左右に小さく揺れたのを見て、ヤムチャはほっと胸をなで下ろした。
「‥‥だったらさ、産もうよ」

 ようやく、ブルマが覆っていた手を外した。赤くなった目を丸く見開いて、ヤムチャの顔を見た。
「おまえさ、さっき意識を取り戻して最初に、お腹の子を心配したんだぜ。それが答えだろ?」
 みるみるブルマの目に涙が溢れてきた。ぼろぼろぼろぼろシーツを濡らすのに、それを拭えずにいるブルマを見て、何で俺はハンカチを持ってないかな、と己の杜撰さを恨んだ。ベッド脇にあったティッシュを適当に引っ張り出して、それで拭いてやる。
「ちゃんとベジータに話すべきだと思うな」
「だって‥‥あのベジータが‥‥子供を欲しがるわけ‥‥」
「大丈夫だって。絶対、おまえがいちばん望む結果になるからさ」

 あの時、ベジータは何て言った?
 「どっちも無事だ」と。
 ベジータは知っている。ブルマが妊娠していることを。
 知っていて、この位置に椅子を置いていた。この距離で、彼女の寝顔を見ていたんだ。
 ブルマ、大丈夫だ。
 絶対、おまえがいちばん望む結果になる。



 
→つづく
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