駄文038/原作考察/『孫悟空』という主人公について考えてみた |
はい、お久しぶりですね。生きてますよ。令和初の更新と行きましょう、と、もう改元して1ヶ月ちかく経ってるのにな。どうよ、このスロースターター。 えっとね、『超』のコミックスの9巻を買ったんです、それで思ったことを。 ベジータが銀河パトロールかぁー。 ナメック星人をこれ以上殺さないとか、なんとか。 小さくなっちまったな、この男はよぉ。 ンだよ、愛だ正義だ、そんな些末なコトは、その辺のザコに言わせてりゃいいだろうよ! ‥‥って言いながら、ふと思ったのが本日の主題。 愛だ正義だ言わない、それが『ドラゴンボール』の主人公、孫悟空! まさに言わされてるベジータは、主人公じゃない、ザコサイドの立ち位置であったよ!! 正解だったわ。 何度か言ったが、悟空は完全な戦闘バカである。とにかく「オラ、ワクワクすっぞ」精神で(特にアニメになったらなおさら)、ただただバトりたい、強ェやつと戦いたいんだ、だけでここまできた。そのためには「大丈夫だ、ドラゴンボールで生き返る」ぐらい平気で言えちゃう。人造人間の出現で未来の世界がぐっちょんぐっちょんだろうと、「オラ、戦いてぇ」って己の欲望が最優先。だって戦闘バカだからな! と、まあ、主人公=神輿がこんな単純バカなので、そりゃあ担ぎ手も多いだろう。なまじ、愛だ正義だブラさがってると、そんな重い神輿は誰も担ぎたくないし、要らんケガでもしたらたまらん。 そう考えていくと、悟空は、なるべくして成った神輿であり、キャラクターであり、そしてみんなに愛されていた、と。 よく、原作後半の悟空は非道いと言われるが、改めて考えてみよう。 海外にまで人気が広がり、世界経済に影響まで与えたと言われる『ドラゴンボール』。その、世界中の少年達の夢と希望を一身に引き受けていた主人公を、よくぞそこまで空っぽにできたもんだ。ここまで長くシリーズ続けてたら、『主人公』は『巨大な悪』に対して『世界を守るために』戦おうとするぜ。言ったら、宇サバ編はまさにそれで、『負けたら世界滅亡』っていう悲壮感漂う状況、それをただ「ワクワクすっぞ」な動機だけで始めて、終えた。アイツ、最後の最後まで「ココで負けたら第7宇宙は‥‥!!」とか言わなかったよ。そんな心配をするのは、ぜんぶギャラリーの仕事。 もう一回言う。よくもまあ、ここまで空っぽのキャラクターに育ったもんだ、孫悟空。 悟空の少年時代。これはもうアツかった。ウパの父ちゃん、クリリン、亀仙人のじっちゃん、いろんな人が死んだ。そして「ちくしょーーう!!」って強くなっていった。少年のアツい冒険ドラマだった。無印のラストで、地球の神になるのを断るのは、これは正義の肩書きを捨てる意味ではなく、少年の冒険心を選んだという意味の方が大きかった。これぞ少年漫画であった。 そしてZになって、悟空は実はサイヤ人という設定が生まれてからは。 こっからはもう、正義も悪も、そもそも冒険心もどっか行った。全ては「オラの中に流れるサイヤ人の血」が動機になった。 「なんで戦うの?」「サイヤ人だからだ」、以降はこの繰り返し。 となるとどうなるか。ギャラリーの方が「じゃあ、こいつと戦える?」「こっちはどう??」と、挑戦者へのチャレンジステージを作る方に熱心になる。 大食い選手に、ひたすら大盛りカレーを積み上げるようなもんだ。食べきれなければ終了。しかし食べ続ける。食べ続ける限り、ギャラリーは次を要求する。熱は冷めぬ。 世界的キャラクターになるべくしてなった、それが孫悟空。 なんか話がデカくなってるけど、つまりそういうことだ、悟空。 そうなると、原作のラスト。 ベジータが考察する、悟空がなぜ強いのか。 これはもう、神回答としか思えなくなってきた。 守りたいものがあるから戦う、そんなのはベジータみたいな小さい男にやらせてりゃいいんだよ! 結論。 ベジータは今後どうやっても、主人公にはなれんよなあ。 要らんもん、いっぱいくっついてるもんなあ。 |
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